三年ぶりに父親が帰ってきた。先日行ったばかりの成人の儀(庶民向けの一般的なものだ)には鳩一羽も飛ばしてよこさなかったくせに、不意打ちにもほどがある。ただわかるのはこれが狙ったものではないこと。父親だけでなく両親が世間で言うところのふつうに疎いことなど疾うの昔に悟っている。
「わかってたつもりなんだけどね」
厚手のマグカップを包むように持ち、アルエットは濃く淹れた紅茶を飲む。
父親は碌に話をしようとせず、ひと晩経ったらまたいなくなっていた――連れてきた子どもを置いて。子どもが持っていた紙束を見るまでもなく生体レプリカということは容易に知れた。これくらいの年齢で赤毛の少年と言えばキムラスカの王族だ。誘拐などという面倒をあの父親がやるとは思えず、かといって落とし胤の可能性もうすい。キムラスカ王家はマルクトとはまたべつの意味で後継ぎに恵まれていないと聞いている。ここまで血統が濃くある子どもをキムラスカの重臣たちが隠し通せるわけがない。なぜなら子どもはベルケンド製だ。
「それにしても」手もとの羊皮紙になにやら書きつけながらエリオットがつぶやく。「まさか禁忌に手を出すとはな。いつかやるとは思っていたが」
「本当にね。しかも適当に刷りこみ(インプリンティング)して放りだすところが父さんらしいわ」
「でもって適当に学習し終えたら回収する。その後があるだけマシなのかもな。いくら使い捨てでも救いはあったわけだ」
「使い捨てる予定にしては手間をかけすぎている気がしないでもないけれど」
バスケットにきっちり均等につめられていた、これまた個々のかたちまでも均一なクッキーを口に入れる。予想に反して塩気のあったそれにアルエットはマグカップにのこっていた紅茶を一気に流しこんだ。口内の味覚が正常値にもどったのでほっと息を吐き、あからさまに笑いを噛み殺しきれていないエリオットをにらみつける。子どもに家事を指導しているのは彼だ。
「なぜ塩味のクッキーができるのかしら」
「砂糖を用意せずにつくらせたらどうなるのかと魔が差した。ある意味素直だな」
「碌なことしないで」
「打開策の候補としてドライフルーツやら加糖のカカオパウダーの類もならべておいたんだが、味覚よりも資格が先立ったらしい。貴重なデータだ」
羽ペンを洋墨壺にもどし、エリオットはこまかな字でびっしりと書きこんだ羊皮紙を重ならないようテーブルに置いた。どうやら子どもを利用した実験の詳細結果らしい。あとで読ませてもらおうと決め、アルエットはクッキーをもうひとつつまむ。まずくはないのだ、ただ期待に反しているだけで。
くだんの子どもは中庭のほうでグランツ氏にしごかれている。双子からすればまだ子どもの部類である彼は年齢に見合わずもローレライ教団神託の盾(オラクル)騎士団の要職に就いているのだと聞く。凛々しい見た目とおとなびた物言いから出会った当初より年下とは思えず、現段階においてもグランツ氏と呼ぶにいたっている。階級で呼ぶほうがおたがいに気負いしないとわかりつつ、双子が居をかまえるのはベルケンドとシェリダンの中間あたりに位置する中規模の邑。中立を掲げるローレライ教団の人間がこのようなところにいるとあっては両国からの、とくにマルクト帝国からの糾弾は避けられまい。なによりも子どもの存在がネックだ。危ない橋を渡っているのは双子、ひいてはクーガー一族も同様だ。学者を多く排出してきたこの一族は相応に闇も多い。露見した際に道連れになるのは国家だ。
「グランツ氏はあの子を教団の私設軍学校に入れるそうよ」
「へえ。じゃあ彼が父さんの依頼人か」
「なんでも、ノームリデーカンの入学試験を受けさせるつもりだとかでイフリートデーカン中に仕上げてください、ですって」
言われ、エリオットはおもしろみに欠けた壁掛け式のカレンダーを見あげた。今日はシルフデーカン・ウンディーネ・二四の日。アルエットが訓練と称して子どもに譜術での庭仕事をさせていたからまちがいではない。水龍旋(スプレッド)やら鎌鼬(ウィンドカッター)やらを駆使させて数年ぶりに手を入れた庭はまるで別宅のそれに見え、午後になって訪れたグランツ氏さえ不審というか不安そうに何度も周囲を見渡していたくらいだ。
「あと三ヶ月半もあるな」
「なめられているのかしらね。それとも素なの、これは。譜術のほうは基礎と制御はできているからあとはからだで慣れて頭につめるしかないわ。第七音譜術は当然だけど、第一と第三もなかなかね。第五は今のところ未確認だけれど、きっと奇数音譜術師(アド・フォ二マー)なのね」
「それにしては第四音譜術もあつかえるようだが、……ああ、愚問だった」
「もしかしたらもしかするかもしれない。今はまだわからないけれど経過次第では完全音譜術(オクターヴ)があつかえる。超振動なんて不安定なものよりもずっと確実だわ」
「ファブレ公爵子息は単体で超振動の発現が可能だそうだが、それに勝るのか」
キムラスカ王国の重鎮、そしてベルケンドの一部の研究者のみに知らされている国家最高機密のひとつをエリオットはさらりと口にする。本来ならば知れるはずのないそれを近所の花壇に蒔かれた種のように話している理由はかんたん極まる。たんにファブレ侯爵子息の超振動実験に何度か立ち会ったことがあるだけだ。ベルケンドの研究室にはもはや顔だけで出入りできてしまう。父親の名前と権利もときには役に立つものだ。
だが、いつになく察しのわるいエリオットにアルエットは長い髪をかきあげた。その仕草でようやく合点する。あの子どもはレプリカでもめずらしい完全同位体というものらしい。なんでも個体振動数が被験者とぴったり同じだとかでつまりは子どもにも超振動の単体使用が可能ということだ。それに加えて完全音譜術――創世暦時代よりもはるかに昔、超古代(ロストグランデ)には確実に存在していたとされる全音階を用いる譜術はどの音素にも属さないと伝え聞く。それも二〇〇〇年以上も昔の人間であるサザンクロス博士の手記にのみの記されていたものだ。アルエットは完全音譜術の復活に一生をささげるつもりでいる。その熱のはいりようは一見おだやかながらも鬼気迫るものがあり、クーガーの血を次につなぐのはおそらく自分だろうとエリオットは勝手に思っていた。
「ともかく」口をもごもごさせて不鮮明につぶやき、アルエットは脚を組み替えた。「いい加減名前を呼ばないのも限界ね。父さんもグランツ氏も教えてくれないのだからこまったわ」
「元よりないんじゃないのか」ぴ、とエリオットは人差指を垂直に立てる。
「軍学校に入学させるのであればいくらなんでも戸籍は必要よ。彼のことだから抜かりなく用意してあるはず。ならば別称をつければいいことだわ。難点は」
「センスがない」
一刀両断されてなおアルエットはつづける。「このままでは呼ばれて来る犬といっしょよ」
「前言撤回」
「許可しましょう」
エリオットは犬がきらいだ。犬にかぎらず、とにかく上位のものに媚びへつらうものすべてをきらっている。曲がりなりにも自分がかかわった子どもがそうなるのは許しがたい。それはアルエットとて同じだ。憧れと媚びは絶対的に異なる。なにより双子は猫派だ。
「名前。名前ねえ……被験者はなんと言ったかしら」
「知らん。赤毛の子どもなんて早々いないと思うが、貴族の考えなどわかるはずがない」
「赤毛は王位継承者だったわね、たしか。レプリカとわからなければ十分に王座を狙える容姿だから、影武者にでもするつもりかしら」アルエットは頬に指を当てて首をかしげる。「それにしてはダアトの介入が過ぎる気がするわ。まさかのクーデターとか」
「そんなことよりも名前だ」こちらはこめかみに指先を当て、とんとん拍子を取ってエリオットは思案する。「ルベウス、カロマイン、ロサ、ガルネット……」
「ベリル、ヴェルディ、エメロード、ジェイド……あら。どこかで聞いたわ」
「ジェイド・バルフォア。フォミクリー理論と譜眼の開発者だ」
「なら却下ね。腹立たしいもの」ぱっぱと虫でもはらうようにアルエットは手を動かす。
双子はバルフォア博士を目の敵にしている。彼の功績はたしかにすばらしいがいかんせん年齢が気に入らない。父親と同等ならまだしも彼は現在二四歳。フォミクリー理論を打ち立てたのはわずか十代なかばだ。天才というだけで優れた学説を考えつけるのはどこか特権じみていて、いまだ音素学権威ヤキンス・クーガーと生物学者マリエラ・クーガーの子どもとしか見られない自分たちと無意識的に比較してしまうのが心底いやで仕方がない。
「いっそリカでよくないか」完全に投げやりになって、エリオット。「呼びやすいし」
アルエットは頬に手を当ててうなずく。「そうね。わざわざ言い聞かせる必要もなさそうね」
子どもがレプリカということはべつに伏せていない。グランツ氏がどう思っているかは知らないが万が一被験者と鉢合わせた際に混乱してアイデンティティ崩壊を起こされても面倒だし、第一ただの人間がそうおいそれと譜術を乱発できるわけがない。特別な処置を施さなければ人間のあつかえる音素の素養は生まれたときに決定しているのだから。子育ては柔軟に。花の子ども時代をほぼ放任されて過ごしきった双子だからこその教育方針だ。
「そうと決まれば呼びなれないといけないわ」
「その前に教えないとだめだろう」
「いいえ、あの子のことだから呼んでいるうちに理解するでしょう。そのほうが、わたしたちにとってあの子はリカという認識なるもの」
「それこそ犬のあつかいじゃないか」口ではそう言いつつもエリオットは腕を組んで首肯する。「だが、一理ある」
ソファから立ちあがり、アルエットは庭を見やった。グランツ氏に飛びかかり、しかし片手でかんたんにくるりと転がされている子どもに目を細める。父親に連れてこられてばかりのころはまだほにゃほにゃの赤ん坊のようだった。けれど歩き方を訓練させれば二週間たらずで走るようになり、言葉はいまだつたないものの簡素な書き取りはできる。読むことに関して言えば古代イスパニア語さえ楽勝だ。そして子どもは譜術を使い、体術を覚えている。速度はちがってもただの子どもと同じ。けれどもあの子どもはレプリカで、グランツ氏の道具以外のなにものでもない。
子どもの罪はレプリカであることそのもの。ならば罰はそれを知ってなお生きることか。
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